左から右へ: モイーズ・チョンベ、ジョゼフ・カサブブ、モブツ・セセ・セコ、パトリス・ルムンバ

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1960年、現在のコンゴ民主共和国は独立を迎えた。しかし、その後のコンゴでは、軍の反乱、外国による介入、地域の分離独立、政治的混乱、そして冷戦を背景とした国際的な対立が相次いだ。「コンゴ危機」と呼ばれるこの一連の出来事の初期を語るうえで、よく知られているのが、独立運動の指導者パトリス・ルムンバの暗殺である。独立からわずか数か月後に逮捕され、翌1961年に命を奪われたルムンバの最期は、コンゴ危機を象徴する出来事として知られている。しかし、ルムンバの暗殺だけを見ても、この危機の全体像は見えてこない。その背景には、ベルギーによる植民地支配、コンゴ国内の政治対立、そしてアメリカ合衆国とソ連の冷戦が複雑に絡み合っていたのである。

コンゴの歴史を理解するには、まず独立以前にさかのぼる必要がある。19世紀末、ベルギー国王レオポルド2世は、コンゴを自らの私有領地として支配していた。彼の統治は、コンゴの天然資源を採取するための強制労働と、極端な暴力で悪名高いものとなった。植民地の役人や兵士たちは、強制労働に抵抗したコンゴ人への罰として、あるいは弾薬が無駄なく使われたことを示すために、コンゴ人の手を切り落とすことさえあった。コンゴ自由国時代には、正確な死者数を歴史家が確定することはできないものの、数百万人ものコンゴ人が死亡した、あるいは行方不明になったとされている。こうした統治に対する国際的な批判が高まり、最終的にレオポルド2世は1908年、コンゴをベルギーに引き渡すことを余儀なくされた。その後、ベルギー政府が正式にコンゴの統治を引き継いだが、植民地支配による搾取と人種的不平等は続いた。ベルギー企業はコンゴの天然資源から莫大な利益を得る一方、政治的な権力は依然として圧倒的にヨーロッパ人の手に握られていた。1

Kasavubu-Lumumba-Baudouin - Desk Africain d'Analyses Stratégiques

カサブブとルムンバ。写真: Afridesk提供。

1950年代になると、コンゴでは独立を求める民族主義運動が広がっていった。その中心人物の一人が、パトリス・ルムンバだったのだ。ルムンバが率いたコンゴ国民運動(MNC)は、特定の地域だけではなく、コンゴ全体を一つの独立国家としてまとめることを目指していた。1959年には独立を求める運動が激しくなり、ルムンバ自身もベルギー当局によって逮捕された。2 それでも彼は独立運動の中で急速に存在感を高め、1960年にはコンゴを代表する政治家の一人となっていた。

そして1960年6月30日、コンゴはついに独立を迎える。ジョゼフ・カサブブが大統領に、ルムンバが首相に就任した。しかし、独立は平和な新時代の始まりにはならなかった。独立からわずか数日後、植民地時代から続いていた軍隊「フォース・ピュブリック」で反乱が起きた。兵士たちは、独立後もベルギー人将校が軍の上層部に残っていることや、コンゴ人兵士が昇進できないことに不満を抱いていた。これに対してベルギーは、コンゴに軍隊を派遣したのである。3 表向きの理由は、現地に住むベルギー人を保護するためだった。

さらに混乱を深めたのが、鉱物資源の豊富なカタンガ州だった。カタンガの指導者モイーズ・チョンベは、コンゴからの分離独立を宣言。豊富な鉱物資源を持つカタンガはベルギー企業との経済的なつながりも強く、独立運動をめぐる争いは単なる国内問題ではなくなっていった。4 新政府は、軍の反乱、ベルギー軍の介入、そしてカタンガの分離独立という複数の問題に同時に直面することになったのだ。危機を収めるため、ルムンバは国際連合に支援を求めた。国連は最終的にカタンガへ軍を派遣し、分離独立勢力を中央政府の統制下に戻すための軍事作戦を行った。

しかし、ルムンバは国連の対応に次第に不満を募らせていく。彼が求めていた形でカタンガの分離独立を止めようとしなかったためだ。そこでルムンバはソ連に支援を求めることを決断したのだ。ここで、コンゴ国内の政治危機は一気に冷戦の国際対立へとつながっていった。アメリカは、ソ連がコンゴで影響力を拡大することを強く警戒した。5

President Moise Tshombe Katanga Editorial Stock Photo - Stock Image |  Shutterstock Editorial

カタンガの指導者モイーズ・チョンベ。写真: Shutterstock提供。

もちろん、ルムンバ自身は共産主義者だったというより、コンゴの独立と反植民地主義を掲げる民族主義者だった。ソ連への支援要請も、ベルギーの軍事介入や国連の対応に対する不満が背景にあった。それでもアメリカ政府にとって、ルムンバは次第に「ソ連に近い危険な人物」として認識されるようになった。5

国内でも政治的な対立が深まっていた。大統領カサブブと首相ルムンバは、外国の介入やソ連への対応をめぐって意見が対立するようになる。1960年9月、カサブブはルムンバを首相から解任。これに対してルムンバも、カサブブを大統領から解任しようとした。5 こうしてコンゴには、互いに正当な権力者だと主張する二人の指導者が存在する状態が生まれた。その政治的混乱の中で台頭したのが、コンゴ軍の参謀総長だったジョゼフ=デジレ・モブツである。

後にモブツ・セセ・セコと名乗るジョゼフ=デジレ・モブツ。象徴的なアバコストとヒョウ柄の帽子を身に着けている。写真: ザ・ガーディアン提供。

モブツは元ジャーナリストで、以前はルムンバとともに活動しており、独立後にはコンゴ軍の参謀総長に任命されていた。アメリカとの関係を深めるなか、1960年9月14日、モブツは軍事クーデターを起こして権力を掌握し、暫定政府が樹立されるまで政治家を一時的に権力から外すと発表した。 6 モブツの台頭は、彼を反共産主義の勢力として有用だと考えていたアメリカ合衆国やその他の西側諸国から歓迎された。ルムンバは自宅軟禁となったが、やがて脱出し、自らの政治的基盤であるスタンレービルへ向かおうとした。しかし、1960年12月、モブツの部隊に捕らえられた。この頃には、ルムンバの政敵たちは、彼が再び権力の座に戻ることを何としても阻止しようとしていた。ある時、兵士がルムンバのポケットから演説原稿を見つけた。その原稿には、ルムンバが自分は今もコンゴの首相であると宣言していた。兵士はその原稿を丸め、口の中に入れた。5 同様の出来事が、こちらの動画にも映っているように見える。

We commemorated the 60th anniversary of the assassination of Patrice Lumumba  (1925-1961). - Foro Permanente de Política Exterior

写真: Foro Permanente de Política Exterior

1961年1月、ルムンバはカタンガへ移送され、17日には、ルムンバと2人の側近がコンゴ軍とカタンガ軍によって処刑された。その後、彼の遺体は秘密裏に処分された。墓が政治的な象徴となるのを防ぐため、遺体は破壊され、その過程では酸も使われた。7 遺体の処分に関わったベルギー人警察官の一人は、個人的な記念品としてルムンバの歯を2本持ち帰り、そのうち1本は最終的に2022年、ルムンバの家族へ返還された。7

暗殺後、ルムンバは反植民地主義の象徴として国際的に知られるようになり、彼の死は、コンゴの独立と、独立したばかりのアフリカ諸国をめぐる冷戦下の対立の暗い側面を象徴する出来事となった。彼の死に西側諸国がどこまで関与していたのかについては、今も議論が続いている。アメリカはルムンバを排除する計画を支持しており、CIAは彼の暗殺さえ検討していた。しかし、最終的に誰が彼の死に責任を負ったのかについては、いまだに議論が分かれている。8

ルムンバが殺害されても、コンゴ危機が終わったわけではなかった。その後も政治的な混乱や反乱、紛争が続き、カタンガの分離独立も1963年まで続いた。同年、国連軍がカタンガ軍に対するさらなる軍事作戦を開始し、分離していた同州を再び中央政府の支配下に戻した。モイーズ・チョンベは最終的に分離独立を終わらせて国政に復帰し、1964年にはジョゼフ・カサブブ大統領のもとでコンゴの首相となった。9 一方、モブツは徐々に権力を固め、1965年には再びクーデターを起こして政府を掌握し、その後、コンゴを権威主義的な一党制国家へと変えていった。

Leopard hats and lost glory: Why DR Congo is looking back at Mobutu : NPR

写真: NPR

1971年、モブツは国名をザイールに変更し、モブツ主義として知られる独自の政治思想を打ち出した。10 アフリカ民族主義を掲げ、ヨーロッパの植民地支配を想起させるシンボルや名前の一部を取り除くことを進め、その一環として自らの名前もモブツ・セセ・セコへと改めた。その一方で、モブツ政権は汚職や政治的弾圧、大統領とその側近への富と権力の集中で悪名を轟かせた。それでもモブツは冷戦を通じて西側諸国との強い関係を維持し、反共産主義を掲げる彼は、アメリカやその他の西側諸国にとって重要な同盟相手となった。モブツ・セセ・セコは最終的に30年以上にわたって権力を握り続け、1997年に打倒されるまでザイールを統治した。11 その後、国名はコンゴ民主共和国に戻された。

1960年のコンゴ独立は、安定をもたらさなかった。ベルギーはなおも国内に介入し、カタンガは分離独立し、ルムンバはソ連に支援を求めたことでアメリカから警戒されるようになった。そしてルムンバが暗殺された後、モブツは軍を掌握し、やがて国の独裁者となった。こうして見ると、コンゴ危機にはベルギー、アメリカ合衆国、ソ連、国連といった国外勢力が深く関わっていた一方で、コンゴの指導者や政治勢力もまた、国の将来をめぐって争っていたことが分かる。コンゴの独立への移行として始まった出来事は、すぐに誰が国を支配するのかをめぐる争いへと変わり、そこでは外国勢力が大きな役割を果たした。ルムンバの台頭と暗殺、そしてその後のモブツの権力掌握は、その後数十年にわたるコンゴの歴史を大きく左右することになった。

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