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「人生は楽しんだもん勝ちだぜ」

でも、本当にそうなのか?仕事を楽しんで何十年もそれを続けたいと思うには相当な圧力と明確な展望が必要だと私は考えているのだ。もちろん、他人に迷惑をかけていない限り仕事をせずに好き勝手に人生を送る方が楽しいのではあるだろう。だからといって、子供たちに夕食を食べさせるために一生懸命働くサラリーマンは「人生の負け組」なのだろうか。この板橋の言葉は、きっと色々なものを諦めた末にたどり着いた結論なのだと思う。

今回は『闇金ウシジマくん』に登場する小堀と板橋の二人を通して、社会に縛られた人間の弱さや、手近なものにすがらざるを得ない心理について考えてみたい。『闇金ウシジマくん』は、闇金業者・丑嶋馨を主人公とした作品である。債務者たちはサラリーマン、風俗嬢、ニート、ギャンブル依存者など様々だが、本作の魅力は闇金そのものではない。むしろ、現代日本を生きる人々がなぜ追い詰められ、人生を壊していくのかを描く社会ドラマとしての側面にある。私自身、この作品は単なる犯罪ドラマというより、日本社会を映し出す鏡のような作品だと思っている。二人の友情や日常のやり取りの細かいエピソードも決して無駄ではなく、彼らがどうやって生き延びようとしているかを示す大事なヒントになっている。だから、これから書くことはすべて彼らの性格や立場を理解するために意味がある。

日本の社会には「小堀」と「板橋」がたくさんいるのだなと思って読んでもらえると嬉しい。私は主にドラマ派なので、今回はドラマ版のお二人を中心に考えてみたいと思う。9話あるうちの6話しか登場しないにもかかわらず、それでも色々と考えさせられるのである。ちなみにこの記事にはドラマ版第1シリーズのネタバレが含まれます。

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小堀

まずは小堀を始め、二人の物語を振り返ってみよう。

「お前みたいなサラリーマンはいくらでもいる」

と言われた小堀は、自分の立場を受け入れざるを得ない状況に置かれる。彼の物語は、名前や人格が必要とされず、会社の歯車として扱われる日本社会のあり方を映している。結局のところ、サラリーマンは会社のために死ぬまで働き、新しい若者が社会に入ってくれば、それで済む“ってことになっちゃう”んだよね。非人間化された小堀は上司からのパワハラに耐え続け、価値観を制限されながら社会の圧力を感じ、ストレスを発散する術もなくビルの上で思いっきり叫ぶのだ。小堀は働くことに追われすぎて、家族に目を向けるどころではなかった。

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板橋

一方、過労死すら当たり前のように強いられる社会の中で、板橋は夢を持たない自由人として生きている。板橋は自分の価値観で満足し、自由な生き方を選んでいるように見える。実際、同僚の冗談をひとりで笑っているシーンがある。周囲から「え?なに笑ってんの?」、「お前と一緒に働くの嫌だわ。もう帰れよ」と冷たく言われても、板橋はどこ吹く風である。気にしている様子はまるでない。小堀のような「真剣に悩み抜く社会人」の生きがいを、板橋は理解する必要すら感じていないように映る。自分の欲求不満を自己欺瞞で押し殺す板橋は、すでに人生を諦めたも同然だ。

そんな板橋は、真面目すぎる小堀の幼馴染である。小堀とおでんを食べたり、家を訪れたりして、ロクな話しかしない。だが、別に小堀と気が合うから一緒にいるわけでもないし、決して小堀といて楽しいとも思っていないだろう。理由はシンプルに他の選択肢がないからだ。何も気にしていないフリをしているわりに、板橋は自分が「ダメな人間」だということを理解している。だが、それを認めようとはしない。これは、5万円貸してくれないかと小堀に聞いた結果、「これをやる。でも二度と俺に話しかけるなと言われ、お金を受け取る場面からも分かる。板橋は渋い表情を浮かべながら、それでも黙って金を受け取るのである。

一方で小堀もまた、自分の今のままでは良くないことを分かっていながら、大きな行動を起こすことができない。他に親しい友人のいない小堀は、まさに真逆の性格をした板橋と付き合い続けざるを得ない。しょうがなく板橋の世話をしたり、飲み会に付き合ったり、時には断れず彼のために金を出してしまう。そのぎこちない優しさ、あるいは「情」のようなものに板橋自身も気づいているのだ。情とは単なる親切心ではない。面倒だと分かっていても、長年の付き合いや人間的な結びつきから相手を見捨てられない感情である。小堀はまさにそういう人間なのだ。

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小堀に5万円を貸してくれないかと尋ねる板橋

板橋は、小堀が縁を切るような性格ではないことを理解している。そして、その弱さを利用している。這いずり回るような孤独感に落ちないために、小堀を必要としているのである。その結果、人生を漂い続ける板橋にとって、小堀との友情は結局のところ「パチンコ代を出し、風俗に付き合ってくれるだけの相手」へと矮小化されてしまった。

小堀と板橋は正反対の性格を持ちながら、どちらも日本の終わりなき労働文化に飲み込まれた男たちだ。小堀は真面目すぎるがゆえに社会にすり潰され、板橋は不真面目に見えるが、結局は社会からはじき出されている。どちらも悪人ではない。環境によって人間性を歪められてしまったのである。さらに、二人の友情は逃げ場であり、同時に足枷でもある。だからこそ彼らの物語は、ただの個人的なドラマではなく、社会構造を映す鏡として機能する。真面目すぎて潰される者。そして自由に見えて社会の外を漂う者。どちらも社会に消費される存在なのである。

しかし、この二人について語られるとき、彼ら個人の性格や生き方ばかりに注目されることが多い。私が見た限りでは、日本のファンやレビューでは社会構造そのものに触れているものは意外と少ない。だが私は、小堀と板橋の物語は個人の問題というより、日本社会のあり方そのものを映しているように思うのだ。

板橋のピースサイン、そして小堀との別れ

作中終盤、板橋は丑嶋から最後のチャンスを与えられる。借金を返すために、もう一度だけ小堀から金を借りればいい。以前の板橋なら、きっとそうしただろう。だが板橋は最後まで金の話を切り出せなかった。別れ際、彼は幼い頃に小堀が撮った写真と同じように、あのピースサインを見せる。ほんの一瞬だけ、借金まみれの男でも、小堀にたかる男でもない。板橋はただの「小堀の幼馴染」に戻っていたのである。その後、板橋はヤクザに連れて行かれる。本当にこれでいいのかと尋ねられた後は「これ以上自分を嫌いになりたくない」と答えたのだ。生死も含めてその後は描かれない。それでも私は、この場面にわずかな希望を感じた。少なくとも最後の最後で、板橋は唯一自分を見捨てなかった友人を利用しなかったからだ。

結論として、小堀と板橋は特殊なキャラクターではなく、日本社会が生み出す「普通の男たち」の象徴である。どちらも悪い人ではない。問題なのは、社会の仕組みが人を縛り、人生の選択肢を制限してしまうことだ。その中で二人が見せる友情や依存関係は、笑える部分もあれば切ない部分もあり、私たちに現代日本の働き方や人間関係の歪みを考えさせる。

2024年、小堀役の中村靖日さんがこの世を去った。私はその半年後にようやくがウシジ私がそのことを知ったのは半年以上経ってからだった。訃報を知った時は正直かなり驚いた。主題歌『巣立ち』のピアノバージョンが流れる中、小堀が虚しくゆっくり歩くシーンが今でも心に残っている。これを読んでいるあなたも、きっといつかは働きながら小堀や板橋の絶望感を理解する日が来るのだろう。理不尽な上司に出会うかもしれない。人間関係に疲れるかもしれない。努力する意味を見失うかもしれない。その時、板橋のあの自由な笑顔とピースサインを思い出してほしい。絶望の中でも、人はほんの少しだけ希望を見つけることができるのだから。

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