「どうして自分のことを“ハーフ”と呼ぶの?」

読了時間: 約4〜6分
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ちょうど一年前、私は学内で一週間の仕事に参加しました。所属学部の学生と卒業生が集う年次同窓会の運営を手伝う仕事でした。その一週間で、私は何人かの教授や職員の方々と初めてお会いしました。

その中に、年配の女性がいらっしゃいました。自己紹介をした際、私は自分の名前を伝え、そして自分が「ハーフ」であることに触れました。日本では「ハーフ」という言葉は英語の “half” が語源で、一般的に両親のどちらかが外国にルーツを持つ人を指す表現として使われています。私はこれまで何度も「ハーフなの?」と尋ねられてきました。顔立ちや名前からそう思われることが多いのです。この言葉は、私の人生においてずっと身近なものでした。

近年では、「ミックス」や「ダブル」といった言葉を好む人も増えています。「ダブル」は「二つを持っている」という前向きな意味合いを込めた表現です。これは単なる言い換えではなく、混血であることへの社会的な捉え方の変化も映し出しています。より前向きに、自分たちの在り方を自分で定義しようとする動きの一つでもあります。

数時間後、その女性が再び私のところへ来ました。

「さっきのことで少し気になっているのだけれど」と彼女は言いました。「どうして自分のことを“ハーフ”と呼ぶの?その言葉は好きじゃないのでは?失礼だと思わない?」

その瞬間、私はどう答えればいいのか分かりませんでした。彼女に悪意がないことは分かっていました。むしろ、配慮からの言葉だったのだと思います。ここが安心できる、インクルーシブな場であることを示そうとしてくれていたのでしょう。ただ、その問いの裏には、「ハーフ」と名乗ることは自分を貶めることなのではないか、という前提がありました。

私は日本で生まれ育ち、これまでずっと「ハーフ」と呼ばれてきました。ほとんどの場合、それは悪意を伴うものではありませんでした。慣れてしまっているだけだ、と言う人もいるかもしれません。「問題のある言葉」を無意識に受け入れているのだ、と。しかし、そうではありません。「半分」という言葉が不完全さを想起させる、という批判は理解しています。そしてもちろん、私は自分を「何かの半分」だとは思っていません。

私は100%日本人であり、100%イギリス人であり、100%ミックスであり、そして100%「私」です。けれども、だからといって必ず別の言葉に置き換えなければならないとも思わないのです。

あのとき私は、「日本語で出自を尋ねられたとき、“ハーフ”という言葉は、相手が知りたいと思っていることを一番簡潔に伝えられるから使っている」と伝えました。広く理解されている言葉だからです。完璧ではないかもしれません。でも、他の言葉だって同じです。「ダブル」を選んだとして、それは永遠に適切な言葉であり続けるのでしょうか。新しい、より“安全な”言葉が次々と現れ続けるのではないでしょうか。もし「ダブル」にも否定的な響きが生まれれば、また別の言葉へと移るのでしょう。そしてその言葉も、いずれは古くなる。私は、自分のアイデンティティを表す言葉を、流行や時代の変化に合わせて何度も変え続けたいとは思いません。

言葉は変わります。ラベルは入れ替わります。でも、私自身は語彙の流行によって変わるわけではありません。

私が「ハーフ」と名乗るのは、「半分」という字義通りの意味に同意しているからではありません。それはあくまで社会的なショートハンドです。自己紹介のたびに人種やアイデンティティの理論を説明する場にしたくない、そのための言葉です。

あのやり取りで私の心に残ったのは、質問そのものというより、その背後にある前提でした。自分で選んだ言葉によって、私が傷ついているはずだ、という思い込みです。私にとってアイデンティティとは、完璧な言葉を見つけることではありません。どんな言葉も、私という存在を完全には言い表せないと受け入れることです。

ハーフと呼ばれても、ミックスと呼ばれても、ダブルと呼ばれてもいい。そのどれもが、私のすべてではありません。だからこそ、それらの言葉は私を定義しきることはできないのです。

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