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「白人の子たちには黒すぎて、黒人の子たちには白すぎる。」
これはアメリカのラッパー、アール・スウェットシャツの歌詞にある一節です。彼の音楽を聴くわけではありませんが、この一節はなぜかずっと記憶に残っています。自分もハーフであることを考えると、その言葉にある「どちらにも完全には当てはまらない」という感覚の、もっと小さなものなら自分にも分かる気がします。日本人からすると英国人すぎて英国人からすると日本人すぎる、と感じることはこれまでに何回もありました。もちろん、アールが歌っているような黒人としての人種差別や暴力と自分の経験を同じものとして語るつもりはありません。ただ、異なる集団の間にいるような感覚については、自分にも少し分かるところがあります。もちろん、こちらはもっとずっと軽い話ですが。
この記事では、アールの歌詞そのものを自分に当てはめるのではなく、その考え方をある特定の場面に置き換えて、自分自身の経験に当てはめてみました。それが、「日本人すぎて面白くない、イギリス人すぎて共感できない」というタイトルです。ここまで読んで、「元の歌詞に近い形で、『日本人すぎて白人の子たちには馴染めず、白人すぎて日本人には馴染めない』という話ではないのか」と思うかもしれません。子どもの頃は、日本人からすると外国人すぎると感じる一方で、英国に戻って英国の学校に通うと、自分のイギリス人としてのルーツから少し離れてしまったように感じることもありました。ただ、今回ここで取り上げたいのは、その話とは少し違います。
この記事で考えたいのは、日本にある国際的な環境、特に大学という場で、自分がどのような立ち位置になるのかということです。「日本人すぎて面白くない」というのは、国際的な環境にいる日本人にとって、自分が「外国人と話したい」と思ったときに求めている相手ではない、という意味です。そして「イギリス人すぎて共感できない」というのは、英語を流暢に話せて、アメリカ人が持っている文化や考え方もある程度理解できたとしても、自分はあくまでイギリス人であって、アメリカ人ではないということです。
もちろん、これは「日本人は日本人より外国人と話したがる」「アメリカ人は日本人かアメリカ人としか仲良くしない」という話ではありません。自分には日本人の友達もアメリカ人の友達もいますし、他にもさまざまな背景を持つ友人がいます。日本人の中にも、自分が日本人だと分かったからといって特に興味を失うことなく、普通に接してくれる人はたくさんいます。アメリカ人についても同じです。また、誰かが「この人は日本人だからこういう人だ」「アメリカ人だからこういう話ができる」と意識的に人を分類している、と言いたいわけでもありません。むしろ興味があるのは、そうした期待が本人たちも気づかないうちに存在していて、その間にいる人間にどのような影響を与えるのか、ということです。
日本人であることで、かえって面白くなくなる
気になっていることの一つに、日本人と話しているとき、相手が自分も日本人だと知った途端に、興味を失ったように感じることがあります。これは、ハーフについてよく語られる「日本人として認めてもらえない」、「日本人としては不十分だと思われる」という経験とは、かなり逆のものです。少なくとも自分が国際的な環境で経験してきたのは、むしろその反対でした。
たとえば、日本人の学生が大学の国際的なコミュニティに入ったとします。英語を練習したい、外国人と友達になりたい、日本のことを紹介したい、日本に来たばかりの人に日本の文化を教えたい。そう考えるのは、特に不思議なことではありません。自分たちにとっては当たり前の日本の文化でも、外国から来た人に説明すると、普段とは違った面白さがあります。
そこで、話している相手がみんな日本人ではないことを前提に会話をしているところへ、私も日本人だと分かると、少し様子が変わることがあります。私は日本で育ってきたので、日本の文化や社会的な感覚について理解しています。相手が外国人に日本について説明しているときも、何を話そうとしているのか、話がどこに向かっているのかも、なんとなく分かります。場合によっては、相手が話し終わる前に「この話はこういうことだな」と分かってしまうことさえあります。
もちろん、だからといって「日本のことなら何でも分かります」と自分からアピールしているわけではありません。むしろ、相手が話している間はあえて口を挟まないことも多いですし、その会話に割って入ろうとすることもほとんどありません。それでも、相手が「この人も日本人なんだ」と分かった途端、少し興味が薄れたように感じることがあったりします。「日本人と外国人が出会う」という、本来ならシンプルだったはずのやり取りの中で、自分が少し邪魔になってしまったように感じることがあるのです。
これは自分がハーフだから起こることとは限りません。国際的なグループの中に日本人が二人いれば、外国人との会話をどちらが中心になってするか、自然と競争のようになることもあるでしょう。二人とも外国人と話したいと思うこともあるかもしれません。ただ、ハーフであることで、そこにもう一つの要素が加わります。
でも、自分はアメリカ人でもない
一方で、日本にいる外国人、特に自分が大学で接してきたアメリカ人の場合は、少し逆のことが起こります。多くの人は、日本人の友達か、自分と同じ国の人のどちらかと自然に仲良くなるように見えます。日本人の友達がいれば、日本に来た目的の一つでもある「日本での生活」を知ることができます。日本人について、日本の文化について、日本で経験したことについて、ここで初めて知ったことについて話せる。一方、同じアメリカ人同士なら、また別の意味で話しやすい部分があります。日本での経験を、同じような背景を持つ人と話すことができる。日本とアメリカの文化を比べたり、日本で起きた出来事について話したり、日本人の社会的な感覚について話したり、いちいち文化的な背景を説明しなくても通じる話ができます。出身州が同じであろうと違う州であろうと、日本にいる間に共通点を見つけて仲良くなる人は多いように感じます。これは別に特別なことではない。人は自然と自分と共通点のある人に惹かれるものです。もちろん、中には日本に来てもほとんど日本人と関わらず、主にアメリカ人同士で過ごして帰っていくような人もいるように思います。ただ、それはまた別の記事で書くことにします。
問題は、自分がそのどちらにも完全には当てはまらないことです。自分は日本人だけれど、英語は流暢に話せる。相手が育ってきた文化も理解できるけれど、アメリカ人ではない。日本側のことも分かるけれど、相手から見れば「普通の日本人」として認識されるわけでもない。日本人として見られれば、相手が求めていた「日本人の友達」とは少し違うかもしれない。
かといって、同じ西洋人として見られても、やはり完全には同じではない。自分は英国人です。これは、よくある「イギリス人とアメリカ人はここが違う」という軽いネタの話ではありません。人との距離の取り方、会話の進め方、自分のことをどう表現するか、他人について何を当然だと思うか。そうした社会的な感覚には、やはり違いがあります。だから、英語を話す西洋人としてアメリカ人と話すことはできても、どこかで「アメリカ人ほど自然には馴染めていない」と感じることがあります。
ときどき、自分でもその違いを意識して、話し方や振る舞いを少し変えてしまうことがあります。別にアメリカ人になりたいわけでも、アメリカ人に合わせて自分を変えたいわけでもありません。ただ、その場で浮かないように、無意識のうちに自分の出し方を少し調整してしまうことがあります。「自分はここにいていい」と相手に思ってもらうために、ほんの少し自分を調整する。それを繰り返していると、少し疲れることがあります。
その間にいる
だから、日本の国際的な環境にいると、時々少し孤立しているように感じることがあります。もちろん、日本人やアメリカ人に拒絶されているという話ではありません。そんなことはありません。日本人の友達もたくさんいますし、アメリカ人の友達もたくさんいます。自分が気になっているのは、人と人が本当にお互いを知る前に、ある程度の「こういう人だろう」という期待が存在することです。もし自分が完全に日本人だったら、相手が求めている日本人としての視点をそのまま提供できるかもしれない。もし自分も日本にいる交換留学生の大多数と同じアメリカ人だったら、英語を話す外国人のコミュニティにも、もっと自然に馴染めていたかもしれません。
でも、自分はそのどれにも完全には当てはまりません。そして、それが今回のタイトルにつながっています。「日本人すぎて面白くない、イギリス人すぎて共感できない。」
もちろん、別の可能性もあります。そもそも深い文化的な理由なんてなくて、たった5分の会話を自分が勝手に深読みしているだけかもしれない。もしかしたら、単純に自分の性格がちょっと変わっていて、どの文化に行っても同じように馴染めないだけなのかもしれません (笑)。あるいは、また自分が考えすぎているだけかもしれません。まあ、それは今に始まったことではありません。
そして、こうしたことのすべてを自分の背景のせいにするつもりもありません。自分にもやるべきことはあります。相手が自分の背景をすぐに理解してくれることを期待することはできませんし、自分だって、「こういう立場の人にはこう接すればいい」と誰もが分かっているとは思っていません。自分から話しかける必要があることもあるし、自分のことを説明する必要があることもある。すべての出会いが友達につながるわけでもありません。だからといって、文化的な部分が関係ないということでもないと思います。異なる文化の間で育ったことで、自分は「国際的な環境」と呼ばれる場所でも、人が意外とさまざまな前提を持って相手を見ていることに気づくようになりました。
人と接するとき、私たちは知らないうちに「この人は日本人だから、こういうことを知っているだろう」、「この人は外国人だから、こういうことに興味があるだろう」、「この人はアメリカ人だから、こういう話なら分かるだろう」といった想像をしています。その一方で、異なる文化の間にいるからこそ、見えるものもあります。日本人が国際的な環境に何を求めているのかも分かるし、日本に来た外国人が、気軽に話せる誰かを求める気持ちもある程度分かる。言語や文化を行き来できることは、自分にとって一つの強みでもあります。ただ、両方を理解できることと、どちらかに完全に属していることは別です。どちらも分かるからこそ、どちらにも完全には属していないと感じることがあります。
それでも、日本の国際的な環境の中で、自分が誰かの想像する「ちょうどいいカテゴリー」にきれいに収まる必要があるとも思っていません。日本人でもあり、英国人でもある。その間にいるからこそ見えるものもある。少なくとも今は、そういう少し中途半端な立ち位置も、自分の一部として受け入れているところです。






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