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近年、日本で外国人やルーツの異なる人たちと交流する場面で、自分のことを「純ジャパ」と表現する若者をよく見かけます。「純ジャパ」は、「純粋」の「純」と「ジャパニーズ」を組み合わせた言葉です。留学生や日系人、あるいはハーフの人たちと区別するために、「自分は日本人です」と伝える意味で使われることが少なくありません。

もちろん、「純粋な民族」というものは現実には存在しません。現在、多くの人が「大和民族」と呼ぶ人々も、縄文人や弥生人をはじめとするさまざまな人々の歴史の中で形成されてきました。日本にはアイヌ民族や琉球民族がおり、ハーフ、在日コリアン、被差別部落など、多様な背景を持つ人々が暮らしています。それは日本だけではなく、世界中のどの国にも当てはまることです。ただ、私が言いたいのは歴史や遺伝子の話ではなく、私が疑問したいのは「言葉」です。

「純ジャパ」という言葉は、「純粋な日本人」と、それ以外の人を無意識のうちに分ける表現になっています。アイヌや琉球の若い世代がこの言葉をどの程度使うのかは分かりませんが、多くのハーフの日本人は、自分のことを「純ジャパ」とは呼ばないでしょう。

もちろん、それ自体は不思議なことではありません。ハーフの人が自分を「ハーフ」と表現し、「純ジャパ」の人が自分を「ハーフ」と呼ばないのは当然です。私が気になっているのは、「純」という言葉が選ばれていることです。

例えば、英国やフランスで、さまざまなルーツを持つ人たちがいる中、「私は純粋なイギリス人です」、「私は純粋なフランス人です」と自己紹介したら、違和感を覚える人もいるでしょう。「イギリス人です」、「フランス人です」だけで十分伝わるはずなのに、あえて「純粋な」を付けることで、言葉の印象は変わります。

もちろん、日本人が自分のことを「日本人」と表現することには問題ありません。私が考えてほしいのは、「純ジャパ」という言葉が何を示唆しているのか、ということです。

外国人の友人や、ハーフの日本人と話す中で、「自分は純ジャパだから」と何気なく口にする人は多いでしょう。そのほとんどは、「純粋」という本来の意味を意識して使っているわけではなく、悪意もありません。ただ、例えばハーフの日本人の前で「自分は純ジャパです」と言えば、意図していなくても、「私は純粋な日本人で、あなたはそうではない」という線引きを言葉の上で作ってしまいます。

「そこまで考えるのは大げさだ」と思う人もいるかもしれません。しかし、それがこの言葉の持つ意味でもあります。使う人に悪気があるかどうかに関係なく、「純」という言葉は、「純粋な日本人」と「そうではない日本人」という区別を生み出してしまうのです。

これは、日本社会や「純ジャパ」という言葉を使う人を批判したい記事ではありません。私が問いかけたいのは、なぜこの言葉がこれほど自然に使われるようになったのか、ということです。

言葉は、その社会が人々のアイデンティティをどのように捉えているのかを映し出します。「純ジャパ」という言葉もまた、日本社会における「日本人」と「そうではない人」を区別する感覚を映している言葉の一つなのかもしれません。

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