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「ウガンダ」と聞くと、多くの人がまず思い浮かべるのは、1970年代に恐怖政治を行った軍事独裁者イディ・アミンだろう。彼の政権は、残虐な弾圧や政治暴力によって世界中に悪名を広め、現在でもウガンダ現代史の象徴のように語られることが多い。
しかし、ウガンダの政治的混乱はアミンだけによって生まれたものではない。アミン以前、そしてアミン以後の指導者たち、特にミルトン・オボテとヨウェリ・ムセベニも現在のウガンダを形作る上で極めて重要な存在である。
むしろ、ウガンダ独立後の歴史は、一人の独裁者だけで切り離して見るよりも、「連続した政治の流れ」として理解した方が自然である。オボテ政権がアミン台頭の土壌を作り、その後の混乱が最終的にムセベニの権力掌握へと繋がっていった。
第1部: ミルトン・オボテと独立直後の国家崩壊

写真: Monitor. ウガンダ大統領に就任するミルトン・オボテ
ウガンダは1962年にイギリスから独立した。独立後、ウガンダ人民会議 (UPC) を率いていたミルトン・オボテが首相に就任する。しかし、新国家としてのウガンダは当初から非常に不安定だった。その理由の一つは、ウガンダが単一民族国家ではなく、植民地時代に複数の地域王国をまとめて作られた国家だったことにある。中でも最も大きな力を持っていたのがブガンダ王国であり、その国王 (カバカ) がムテサ2世だった。¹ ブガンダは植民地時代、イギリスと半自治的な関係を築いており、独立後も高い自治権を維持しようとしていた。
しかし、この状況は中央政府との対立を深めていく。1962年から1966年にかけて、ウガンダでは議会制民主主義と伝統王国体制を共存させようと試みられたが、次第に限界が露わになっていった。オボテはブガンダの自治を国家統一、そして自らの権力に対する脅威とみなしていた。 ²
そして1966年、危機は決定的なものとなる。汚職疑惑や政治陰謀、権力闘争が激化する中、オボテは憲法を停止し、軍に対してカンパラのルビリ王宮への攻撃を命じた。この作戦を指揮した軍人こそ、後に大統領となるイディ・アミンである。攻撃後、ムテサ2世は英国へ亡命した。²

写真:Nile Post
その後、オボテは自らを大統領とする強権体制へ移行していく。1967年にはブガンダを含む伝統王国制度そのものを廃止し、地域勢力を弱体化させながら国家権力の中央集権化を進めた。なお、王国制度は1990年代に文化的存在として復活するが、政治権力は失われたままだった。¹
この頃からウガンダ政治は急速に権威主義化していく。1969年にオボテ暗殺未遂事件が発生すると、野党は禁止され、反対勢力への弾圧も強まった。³ また軍部の政治的影響力も拡大し、特にアミンのような軍人が台頭していく。
つまり、アミンがクーデターを起こす以前から、ウガンダはすでに深刻な政治不安を抱えていたのである。
第2部:イディ・アミン政権と国家崩壊

写真:PBS
1971年1月、オボテがシンガポールで開催されていた英連邦会議に出席している最中、イディ・アミンは軍事クーデターを起こし政権を掌握した。
当初、一部の国民はアミンを歓迎した。長年続いた政治対立の混乱を終わらせてくれる存在として期待されたからである。⁴ しかし、その期待はすぐに裏切られることになる。
アミン政権は政治的粛清、民族迫害、軍内部の虐殺、言論弾圧、経済崩壊などによって、現代アフリカ史でも最悪級の独裁政権として知られるようになった。さらに「人肉食」の噂まで世界中で広がり、恐怖の象徴として扱われた。⁵
特に有名なのが、1972年のアジア系住民追放である。アミンは約6万〜8万人のアジア系住民、主にインド系・パキスタン系住民、に対し、90日以内に国外退去するよう命じた。彼らの多くは植民地時代から何世代にもわたりウガンダに住み、商業や産業を支えていたが、アミンは「経済的に国家へ忠誠を持っていない」と非難し、企業や財産を没収した。多くの難民はイギリス、カナダ、ケニアへ逃れた。⁶

写真: Hindu Perspective. 1972年に追放されるウガンダのアジア系住民
一方、オボテは隣国タンザニアへ亡命していた。1972年、オボテ派勢力はタンザニア政府や亡命勢力、さらに後のムセベニ派ゲリラを含む反アミン勢力の支援を受けてウガンダ侵攻を試みる。しかし作戦は失敗し、アミンは報復として全国的な弾圧をさらに強化した。特にオボテと関係の深いアチョリ族やランギ族が大量に粛清された。⁷
その後もウガンダとタンザニアの関係は悪化し続け、1978年、アミンはタンザニア領へ侵攻する。しかしこれは大きな誤算だった。タンザニア軍はウガンダ反政府勢力と共に全面反攻を開始し、1979年には首都カンパラを制圧。アミンは国外逃亡し、独裁政権は崩壊した。⁸
第3部:オボテ復帰とムセベニの反乱

写真: TRT World (ユーチューブ)
1979年にアミン政権が倒れても、ウガンダがすぐ安定したわけではなかった。その後の数年間、短命政権が次々と交代する混乱期へ突入する。
1980年、選挙を経てミルトン・オボテが再び政権へ復帰する。しかし、この選挙には大規模な不正疑惑が持ち上がり、多くの国民が結果を信用しなかった。
特に強く反発した人物がヨウェリ・ムセベニだった。彼の率いる「ウガンダ愛国運動」は選挙で大敗していた。⁹ ¹⁰
ここで重要なのは、ムセベニの権力掌握もまた、オボテとアミン両政権の混乱から直接繋がっている点である。ムセベニは1970年代の反アミン闘争を通じて軍事経験を積んでおり、オボテ復帰を「独立以来続く権威主義と混乱の継続」だと考えていた。⁹
1980年選挙は不正だったとして、ムセベニは「国民抵抗軍 (NRA)」を率いてゲリラ戦を開始する。こうして第二次オボテ政権との内戦、いわゆる「ブッシュ戦争」が始まった。1980年代前半の戦闘は非常に激しく、特に中部ウガンダでは政府軍の掃討作戦、ゲリラ戦、虐殺によって膨大な民間人被害が発生した。数万人規模が死亡したとされている。¹¹

写真: Eagle Online
1985年、オボテは再び失脚する。今度は自身の軍司令官だったティト・オケロ将軍によるクーデターだった。オボテはザンビアへ亡命する。
しかし、それでも内戦は終わらなかった。ムセベニはオケロ政権を「単なる軍事政権の延命」と見なし、協力を拒否。NRA軍はカンパラへの進軍を続け、1986年1月、ついに首都を制圧した。¹²
こうしてムセベニは大統領へ就任し、現在まで続く長期政権が始まることになる。その後ムセベニは憲法改正によって大統領任期制限や年齢制限を撤廃し、野党勢力からは民主主義後退や政治弾圧への批判が繰り返し上がっている。現在でも彼は世界でも有数の長期政権指導者の一人である。
結論
国際社会でウガンダ現代史が語られる際、その話題はイディ・アミンだけで終わってしまうことが多い。しかし、それではアミン以前と以後に続いた政治の連続性を見落としてしまう。
オボテは独立後の脆弱な民主制度を弱体化させ、国家権力の集中を進めた。その不安定さの中からアミンが現れ、軍事独裁体制を築き上げた。そしてアミン失脚後も暴力と混乱は終わらず、第二次オボテ政権下の内戦を経て、最終的にムセベニが武力闘争によって政権を掌握した。
つまり、ウガンダ現代史は単独の独裁者の物語ではなく、それぞれの時代の失敗と混乱が次の政権を生み出していった「連続した政治史」として見る必要があるのである。
² The Journal of Modern African Studies
⁵ HISTORY
⁶ BBC News
¹¹ UPI







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