外国観光客が「日本の専門家」になるとき

読了時間: 約6〜8分

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近年、私がよく目にする「日本を分かったつもりの外国人」には、大きく分けて二つのタイプがある。一つは、日本文化を理解したつもりになり、他人の行動を正そうとする人。もう一つは、日本の歴史を理解したつもりになり、日本に対する肯定的な話題に対して戦時中の話を持ち出す人である。一見するとこの二つは全く異なるように見えるが、実際には共通点がある。それは、日本という国を単純で分かりやすい形に当てはめようとする姿勢である。日本では、海外の人の考え方や感じ方に触れる機会はまだ多いとは言えない。もちろん人による部分はあるし、すべての外国人に当てはまるわけではないが、本稿ではそうした背景も踏まえ、私が実際に見てきた二つの傾向を紹介したい。

まず一つ目は、「文化の代弁者」のように振る舞う外国人である。彼らは日本のマナーや習慣について断片的な知識を得ると、それをもとに他の外国人に日本を説明し始める。時には、日本で生まれ育った人に対してさえ指摘をすることもある。

このような場面を、私は実際に自分の目で見た。2024年のクリスマス・イブ、イギリスから姉が日本に遊びに来た。姉は私と違い、日本で生まれた人間である。私が普段から通る神社の近くを歩いていたとき、池のそばで100円で魚のエサが売られているのを見つけた。近くの飲食店が設置しているもので、姉はお金を入れてエサを取り、魚に与え始めた。

すると突然、後ろから一人のアメリカ人の男性が現れ、「ここではそういうことをしてはいけません。日本人は嫌がります」と言った。

姉は明らかに不快そうな様子で、「私は日本人です。この街で生まれましたし、このエサもそこで買ったものです」と、その飲食店を指さして答えた。男性は何も言わずに立ち去った。

印象的だったのは、彼の自信である。彼は「日本人がどう考えるか」を自分の中で決めつけ、それを他人に押し付けていた。このような行動は、本人としては日本を尊重しようとする気持ちから来ている場合もあるが、結果的には逆効果になることがある。日本を固定されたルールの集合として捉え、実際の多様性を見落としてしまうからである。

こうした自信の多くは、表面的な知識から来ているように思われる。TikTokの短い動画や旅行ガイド、「日本でやってはいけないこと」といったユーチューブ動画などである。これらの情報自体が完全に間違っているわけではないが、日本文化を状況に応じて変化するものではなく、固定されたルールとして提示してしまいがちである。

このような人々は、日本を「やっていいこと・いけないこと」のチェックリストのように扱い、自分がそれを理解している側の人間であると位置づける。結果として、「自分は分かっている外国人である」と示す行為になってしまうことも少なくない。

もう一つのタイプは、主にオンライン上で見られる。日本についての投稿、例えばお気に入りの場所を紹介する動画や、日本人の親切さについて語る内容、あるいはアニメを楽しんでいるだけの投稿であっても、コメント欄には日本の戦時中の行為を指摘する書き込みが見られることが増えている。

これらのコメントは、多くの場合「指摘」や「訂正」として書かれる。日本は食や美しさ、礼儀正しさだけではなく、過去に侵略や暴力を伴う歴史を持つ国でもある、という主張である。そして、この点自体は事実であり、日本の戦時中の行為、アジア各地での加害の歴史は、無視されるべきではない。

しかし、それが提示される文脈によっては、教育というよりも「遮り」に近いものになることがある。単なる旅行体験の共有が、その人の認識や知識を試す場のようになってしまうのである。

こうした反応の背景には、一定の理由がある。日本の戦時中の歴史は、教育や社会の中で十分に扱われてこなかった、あるいは限定的に扱われてきたという指摘がある。また、日本が戦争の過去と向き合う姿勢は、ドイツなどと比べて異なるとも言われており、私自身の経験から見ても、その違いは感じられる。こうした状況から、「忘れさせてはいけない」と考える人がいるのも理解できる。

しかし、このような指摘の仕方にも別の問題が生じる。それは、日本人が自国の歴史を知らないという前提や、現代の日本を80年前の国家の行為だけで説明できるかのような見方につながってしまう点である。

実際には、日本の若者の中にも歴史認識には差がある。例えば、「南京」という言葉が日中関係の中で持つ意味を十分に理解していない人もいれば、そうした歴史を学び、批判的に捉えている人もいる。日本は一枚岩ではなく、さまざまな考えを持つ人々によって成り立っている社会である。

また、制度的な側面においても、戦争責任に関する言及が全くなかったわけではない。例えば村山談話をはじめとして、複数の内閣総理大臣が戦時中の行為に対して反省や謝罪の意を表明してきた経緯がある。

さらに、「日本はイメージを作り替えた」という指摘を目にすることもある。これは、日本が魅力的で洗練された国として自らを発信する一方で、過去を覆い隠しているのではないか、という見方である。

確かに、歴史の記憶や伝え方については議論されるべき点がある。しかし、この考え方が行き過ぎると、観光業やアニメ、エンターテインメントといった現代の文化的産業までもが、その「イメージ操作」の一部であるかのように捉えられてしまう。それでは、現在の文化や創造活動そのものの価値が見えにくくなる。

興味深いのは、こうした二つのタイプの「日本通」が、互いへの反応として存在しているように見える点である。

一方には、日本を理想化し、礼儀正しく、時には完璧な国のように捉える人々がいる。他方では、そのイメージに対する反動として、日本の最も暗い歴史的側面をあらゆる機会に強調する人々もいる。

どちらの立場も、現実を単純化してしまうという点では共通している。

歴史と向き合うこと自体は重要であり、それ自体は当然のことでもあるが、その扱いには一貫性が必要である。多くの国には、暴力、帝国主義、差別といった歴史が存在する。しかし、それらが日常的に無関係な話題の中で持ち出されることは多くない。例えば、ロンドンやニューヨークを紹介する無邪気な動画のコメント欄で、常にそうした歴史が指摘されるとは限らない。それは多くの場合、文脈として適切とは言いがたいだろう。

だからといって、そうした歴史を無視してよいということではない。むしろ重要なのは、それを適切な文脈と意図の中で語ることであり、反射的に持ち出すことではない。現代の日本は過去の影響を受けながらも、それだけで定義されるものではない。そこに暮らす人々の日常や価値観、行動によっても形作られている。

日本を「理想化された存在」あるいは「過去の象徴」としてのみ捉えてしまうことは、どちらにとっても本質を見失わせることになるだろう。

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