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これまでの人生の大半を日本で過ごしながら、イギリスでの生活や滞在も経験してきた。その中で、ここ5年ほどは特に、自分が周囲からどのように見られているのかについて強く意識するようになった。同じ一つのアイデンティティであるはずなのに、人によっては複雑に捉えられたり、逆に「つまり◯◯ってことだよね」と単純に括られてしまったりする。本稿では、そうした経験について振り返りたい。

日本では、私は「日本人ではない人」として見られることが多い。日本語が話せる外国人、あるいは「ハーフ」として認識されることがほとんどだ。大学でも、初対面の人から「日本人なの?」「日本語話せるの?」といった言葉をかけられることがとても多いです。本稿では、そうした一時的なやり取りだけでなく、友人や先生、クラスメイトなど、ある程度関係を築いた相手が、最終的に自分をどう見ていたのかという点にも焦点を当てている。

私は日本の血を引き、日本人の名前を持ち、日本語も母語レベルで話す。それにもかかわらず、大学の日本人の友人や留学生の中には、私を「日本人」として完全には捉えていない人もいる。むしろ「イギリスの側面」が強く見えるらしい。言動やユーモア、ときには少し大きめなリアクションなどが、「日本人らしくない」と感じられるのだと思う。

ただ、私自身はそこまで「イギリス人らしい」とも感じていない。イギリス文化についての多くは、インターネットや映画、ミームといったオンラインの世界から吸収してきたものだ。いわば、後から身につけた感覚でもあり、そこから自分のイギリス側のアイデンティティをより好きになったのだ。だからこそ、イギリスでは「完全にイギリス人とは言えない」と見られることがある一方で、日本では逆に「完全に西洋的な人」として捉えられてしまう。このズレは常に感じている。

留学生の友人たちからは、また別の意味で「日本人っぽくない」と言われることがある。特にアメリカ人の学生とは言語が同じで、SNSを通して文化的な知識も共有しているため、話が合いやすい。そのため、「今まで会った中で一番優しいイギリス人」と言われたこともあるが、そもそも彼らにとって私は数少ない“実際に会ったイギリス人”なのだと思うと、少し不思議な気持ちにもなる。

他のアジア圏の留学生とは、「この中で慶吾が一番アジアっぽくない」といった軽い冗談を言い合うこともある。また、中国人の学生からは、「英語が話せて見た目もハーフっぽいから話しかけやすかった」と言われたこともある。日本人の学生に話しかけるよりも、自分の方が心理的なハードルが低かったらしい。こうしたことも含めて、結局は「自分がどういう人間か」というより、「どう見られているか」が大きく影響していると感じる。

印象的だったのは、南アフリカ出身の留学生に「日本人がイギリス英語を真似して話しているみたい」と言われたことだ。冗談交じりではあったが、自分の中で変化している英語の感覚を言い当てられた気がした。もともとのエセックス訛りは薄れ、今はどちらかというと南イングランド寄りの、いわゆる“インターナショナルな英語”に近づいている。彼にとっては、それが「自然なイギリス英語」には聞こえなかったのだと思う。

こうした経験の多くは大学に入ってからのものだが、それ以前にも似たようなことはあった。

イギリスの中等学校に通っていた頃、私はクラスの中で「日本人の子」として認識されていた。学校自体は多様性のある環境だったが、東アジア系の生徒は少なく、その中で私は目立っていた。自分がハーフであることは知られていたものの、それよりも「日本人であること」が前面に出ていた。クラスの黒人の男子グループからは、アニメ『ドラゴンボール』のキャラクターにちなんで「悟空」と呼ばれていた。からかいというよりは、ある種の親しみだったと思うが、白人の父と一緒にいるときでさえそう呼ばれていたことを考えると、やはり彼らにとって私は「日本人の子」だったのだと思う。

日本の高校では、いわゆる「ヤンキー校」と呼ばれる、少し荒れた環境に通っていた。入学当初は、他のハーフの生徒や外国人の生徒、日本人の生徒と小さなグループで過ごしていた。その中の一人の日本人の友人から、出会って1年後に突然「本当の名前は何?」と聞かれたことがある。意味が分からず聞き返すと、「“慶吾”は日本用の名前で、別に外国の名前があると思っていた」と言われた。1年間ずっとそう思われていたことに、正直かなり驚いた。

こうした認識は同世代に限った話ではない。先生とのやり取りの中でも、印象に残る出来事はいくつかある。

アメリカ人の教授が、19世紀のアメリカで誰に選挙権があったかという話をした際、「この教室で投票できるのは自分と慶吾だけだね」と言ったことがあった。そのクラスには白人である教授、日本人と中国人の生徒達と私がいました。教授と私は白人男性という意味での発言でしたが当時の米国の歴史を考えると、差別を受けていた混血の人間が本当にその中に含まれていたのかという疑問が頭をよぎった。その発言が何度か繰り返されたこともあり、少し複雑な気持ちになった。

日本の学校では、「普通の日本人」という表現を耳にすることがよくあった。悪意は全くないのは分かっているが、自分のような立場の人間がその「普通」から外れている前提で使われることが多かった。ある先生は、難しい内容を前にして「普通の日本人でも分からないから大丈夫」と私と他のハーフの生徒に言ってくれたが、自分は日本語も問題なく理解できるし、日本人でもある。その言葉にはどこか引っかかるものがあった。

また、個人的にとてもお世話になった先生が、なぜか私に対してだけ極端に簡単な日本語で話しかけてくることもあった。こちらがどれだけ難しい表現を使っても、返ってくるのは子ども向けのような言葉で、「漢字って難しいよね、かわいそうに」と言われたこともある。応援してくれている気持ちは分かるからこそ、どう受け止めればいいのか悩んだ。

大学での話に戻ると、学生との間にあるこうしたズレは今も続いている。

グループディスカッションで、発表者が結論として「日本人の4人はこう考え、留学生はこう考えました」とまとめた。その直後、2年間一緒に授業を受けてきた学生が、私の名前を呼びながら「え、慶吾って日本人なの?」と聞いてきた。日本語で会話を重ねてきたにもかかわらず、自分の日本語の名前で呼びかけられながら、改めてそう確認されたことに、強い違和感を覚えた。

特に印象に残っているというより、正直に言えば一番不快だったのは、初対面の人からの反応だ。日本語で挨拶をすると、「え、日本語話せるの?」「日本人なの?」といった言葉を、その場で大きな声で共有されることがある。まるでこちらがその場にいないかのように話されることも多く、正直かなり失礼だと感じる。言われた瞬間、「いや、あなた誰?」という気持ちになることもある。

もちろん、見た目で判断されること自体は理解できる。ただ、その驚きをわざわざ口に出し、しかも本人の目の前で話す必要があるのかとは思う。心の中で認識を修正すれば済む話ではないだろうか。

さらに気になるのは、そうした人たちが他の相手にはきちんと敬語を使い、礼儀を守っていることだ。いわゆる先輩・後輩の関係を意識した振る舞いはできているはずなのに、自分に対してはそれが適用されない場面がある。

例えば、初対面であるにもかかわらず、「え、日本人なの?」「日本語話せるの?」といったことを、半ばネタのように笑いながら口にすることがある。本来であれば、会ったばかりの先輩に対してそんな言い方をすることはまずないはずだ。それなのに、自分に対してはその距離感や礼儀が一気に崩れる。

まるで自分がその「先輩・後輩」という枠組みの外にいるかのように扱われている感覚がある。悪気がないことは分かっているが、その無意識の線引きこそが、かえって強く違和感として残る。正直に言えば、かなり失礼だと感じる瞬間でもある。

一度、友人と話しているときに、初対面の女子学生2人に日本語で挨拶をしたことがある。すると、驚いた様子で笑いながら、自分のことをその場で話し始めた。こちらが日本語を話しているのを聞いているはずなのに、まるで理解できない前提で会話が進んでいく。そのときは何も言わず、無視をして友人との会話に戻った。

また別の日には、日本語が堪能な韓国人の学生が、共通の友人が私に日本語で話しかけたのを見て、「え、この人日本語話せるの?」と言ったことがあった。正直、日本人だけでなく、日本人ではない人まで同じような反応をすることに、苛立ちを感じたのを覚えている。「話せるよ。君は話せるの?」と返したが、意図はあまり伝わっていなかったようだった。

アルバイト先でも、似たような経験がある。丁寧な日本語で接客をした後、名札の外国姓を見たお客さんが、「この子、日本語大丈夫なのかしら」と聞こえるように言った。接客中だったため何も言えなかったが、もし同じことがイギリスで起きていたら、全く違う反応になっていたと思う。その後、名札を日本名表記に変えてもらうことにした。

全体として、日本では自分のアイデンティティに対して疑問を持たれることの方が多いと感じている。イギリスでは「日本人の子」として認識され、日本では「どこか違う存在」として見られる。その間で、常に揺れているような感覚がある。もちろん、自分の背景について説明すること自体は嫌ではない。ただ、あまりにも前提的な部分を何度も疑われたり、大げさに驚かれたりすると、正直疲れてしまう。理解された後でもなお「完全には同じではない」と見られることも少なくない。

だからこそ最近は、そうした反応をする人とは少し距離を置くようにしている、特に初対面の大学内の後輩たち。その代わりに、自分の背景を必要以上に特別視せず、自然に受け入れてくれる人たちと過ごす時間を大切にしている。完全に理解してもらえなくてもいい。ただ、それが関係の中心にならないことが、自分にとっては大事だ。

本稿の目的は、「見た目だけで判断しないでほしい」と強く訴えることではないし、質問すること自体を否定したいわけでもない。純粋な興味からの質問であることも分かっている。ただ、その伝え方はもう少し工夫できるのではないかと思う。

自分自身も、他人について何かを推測することはある。ただ、それをそのまま口に出すのではなく、タイミングや聞き方を考えるようにしている。相手に対する関心として伝わるのか、それとも疑いや違和感として伝わってしまうのか。その違いは、とても大きい。

アイデンティティは、とても個人的なものだ。だからこそ、それに触れるときには、少しの配慮が必要なのだと思う。

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